上町は鹿児島の町の発祥地と言われる。
14世紀半ば、鹿児島に入ってきた島津氏の居城が、多賀山にあった東福寺城から清水中学校の裏山一帯にあった清水城、大龍小学校にあった内城と変還し、17世紀に鶴丸城に移るまで、上町は城下町として栄えたからです。

島津氏の城下町となるずっと前から、上町地区では生活が営まれていたのです。地域内を稲荷川が流れ、現在の南州神社から東の大龍小、若宮神社、春日神社あたりは標高5〜10メートルの大地になっていますが縄文時代中期(4〜5000年前)には既に人が住み着いていたとされます。その証拠に大地のあちこちから集落跡や土器片、石斧、矢じり、イノシシの骨などが
発掘されています。
         上町の歴史を歩む

藩政時代から栄え、鹿児島駅や鹿児島港とともに発展してきた上町地区
。その歩みを振り返ると、鹿児島の町の「ルーツ」が見えてくる

    人々は既に縄文時代から住み着いていた
島津氏の住むところと共に鹿児島は発展した
島津氏と鹿児島との関係ができたのは、1185〔文治元)年椎宗忠久が源頼から南九州にあった広大な荘園「島津荘」の役人に任じられたのが始まり。のちに忠久は「島津」を称したが、三代久経までは主に鎌倉に居住。4代忠宗の時代に南九州に移り住んだと言われる

南北朝時代の1341(興国2)年。当時北薩にあった北朝方の五代貞久が鹿児島進出を意図し、南朝方の肝付兼重が守る東福寺城を攻め落とし、子の氏久を住まわせた東福寺城は稲荷川河口に近い山城。その後東福寺城は6代目を継いだ氏久の居城となった

上町一帯は、薩摩国と大隅国を結ぶ交通の要衡であり島津氏は鹿児島を本城とするようになった。
これが上町が城下町として発展する始まりとなった。島津氏はその後勢力を広げるとともに、清水城、内城、鹿児島城(鶴丸城、城山の麓一帯)へと居城を移していった。

現在の清水中学校の裏山一帯にあった清水城は、7代元久が1385〔元中2)年ごろに築城。約160年間にわたり、統治機能の拡充に伴って名実ともに「鹿児島本城」として機能した。

15代貴久は一時、伊集院に居住したが、戦国時代の1550(天文19)年、戦略的に重要な鹿児島に再び内城を築いた。場所は大龍小学校の現在地。一辺100メートル四方の館は簡素なものだったが、この時期は島津氏が三州統一から九州制覇へと活躍した時代であった。

島津氏が清水城を居城とするようになると、家臣の屋敷や多くの家が建てられ、城下町を形成していった。内城の築城移転によって今日の上町の形がほぼ作られたと言われています。
                                                
  
清水城跡
港や神社、寺院が多い上町
18代家久は城下町の発展には上町だけでは不十分と考え1601(慶応6)年、鶴丸城丸の築城に着手。さらに、甲突川の流れを変え、その右岸に多くの家を建てさせるなど下町方面の建設に力を入れ、街並みは上町地区を起点に南へと広がっていった。

春日町や大竜町などの住宅街を歩くと歴史を感じさせる石垣や生け垣で囲まれた、財界人等の大邸宅が点在しているのも、かっての城下町の名残と言えるでしょう
アメニティ回廊
石垣の邸宅が並ぶ歴史アメニティ回廊
稲荷川の河口は、琉球、中国や国内の要港に通じていた。特に清水城の頃、上町に城下町生まれ港町としても発展。さらに鶴丸城筑後は、中世とは比較にならない広域な広域な城下町ができていった

1840(天保11)年頃に稲荷川の土砂をさらい、祇園之洲が埋め立て、造成され、港湾機能も整備。1853(嘉永6)年には、28代斎彬によって祇園之洲に砲台が造られ、やがて薩英戦争の舞台になりました。

上町には神社、寺院が多く、今も南方神社(諏訪)八坂神社稲荷神社、春日神社、若宮神社は「鹿児島5社」と呼ばれています又、福昌寺(玉龍高校裏)、浄光明寺(南州公園裏)大龍寺(大龍小学校)は「鹿児島三ヶ寺」と呼ばれていました。
現在残っている鹿児島三ヶ寺のひとつ、「浄光明寺」
清水城があった清水中学校一帯
若宮神社
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